優一は、イディアを何事もなく、家に持ち帰ることができた。
朝の美術室には、思ったとおり、顧問の安岡はいなかったし誰もいなかった。
誰に見られることもなく、絵の入った筒をピックアップできた。
筒を一日、学校指定のナップサックに入れておいたが、優一は昨日ほど緊張はしなかった。
別のクラスの純也とも由香子とも顔をあわせることもなく過ぎた。
夕方になると、優一は部活を休んで帰宅した。
早くイディアに会いたかったからだ。
家に急ぐ自転車でも、不思議と心は落ち着いていた。
家の玄関を開けると、家から出ようとする父親とぶつかりそうになった。
「ただいま、どうしたの」と優一は聞いた。
まだ、夕方なので父親が仕事から帰るには早い時間だったからだ。
「ちょっと忘れものがあって、家に寄ったんだよ、仕事に戻るよ」
「優一は、今日は部活なかったのか」
「うん、そう」と優一は靴を脱ぎながら返答して、家にあがった。
「ただいま」といったが、母親の声は聞こえなかった。
「お母さんは出かけているよ」と玄関の方から父親の声が聞こえた。
優一は、その声を聞きながら、自分の部屋のある2階へと階段を登った。
自室に入るとドアを閉めた。
母親がいないのは好都合だった。
窓から車庫のあたりをカーテン越しに見下ろすと、父親の車も、もうなかった。
家に誰もいない。
急に胸が高鳴ってきて、ナップサックを開くて手もおぼつかない。
「緊張してるなぁ」と優一は独り言をいって苦笑した。
ナップサックから、筒を取り出して、筒からワレモノを扱うような慎重さで、
トレーシングペーパーに包まれたイディアを取り出した。
筒の中にあったので、画用紙は丸まっていて、手で目の前に広げて眺めた。
胸の高鳴りは急速に落ち着いてきた。
「ううん」と優一は怪訝な声をあげた。
画用紙には確かに、イディアが描かれている。
あの恋い焦がれたイディアが目の前にいる。
だけれど、校長に呼ばれ、初めてイディアを見たときのあの感覚は、全く蘇らなかった。
優一は、すぐに手持ちの額に入れてみた。
丸まっていた画用紙の歪みの影響かと思ったのだ。
本当はそんなことが影響するはずはないと思ったが、そう思いたかった。
額に入れ机に立てかけ、目の高さをあわせて、イディアの強く射るような瞳を、正面から見つめた。
夕方の太陽が、窓から差し込んできている。
何分間、見つめただろう。
だけれど、校長室で感じた、自然に涙が流れる狂おしい程の感情はどこにも現れなかった。
日も暮れて薄暗くなっていく部屋でひとり、優一は呆然としていた。
”一体、なんだったんだろう”
”僕が、あの日、イディアに感じた想いは”
しばらくして我に返ると、優一は、額を段ボール紙に包み、ベットの下に隠した。
優一は脱力し、いい知れぬ虚無感が全身を被うのを感じていた。
ベットに身を投げて、天井を見つめた。
”一体、なんだったんだろう”
〜あらすじ〜 時は80年代後半、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也の共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、それは成功したのだけれど、物語は意外な展開に。 10代男子が、苦悶しつつも、友達や周りの大人たちに身も守られ、成長していくストーリー。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
純也が公園の中央にある時計を見上げると、ちょうど7時半だった。
「窓はまずいな、あせっていたからな、オレたち」
さすがの純也も、深刻な顔になった。
それを見て、優一も、さらに青い顔になった。
「侵入はバレても、オレたちの証拠はない、大丈夫」
「盗まれたり、なくなったりしたものも、ないから」
と、純也は無理に元気な声で自分に言い聞かせる様に言った。
「いや、普通、無くなったものがないか、部屋を詳しく調べるだろう、そしたら、あの絵に気づく、絶対に気づくよ」
優一は、今にも泣きそうな声で言った。
「なんな、ヘタくそな模造、すぐバレるって、バレるバレる絶対」
「でもさ、こんなところで、あーだこーだ言っていてもしょうがないだろ」
「あとさ、物事には絶対はない」
純也は、少しイライラした口調で言った。
「いまさらどうしようもない、夜、オレんちで話そう」
「今日は、予定とどおり、自然にいつも通り登校して、過ごそう、優一、あくまでも自然にな、無理かもしれないけど、自然に」
「なぁ、とりあえず笑えよ、優一、死人みたいな顔だぞ」と言っている純也の顔が全く笑っていなかった。
いつもどおり教室に入り、いつもどおり授業を受けていたが、
優一は、いつ校長室の侵入事件の話が、クラス担任から切り出されるか、気が気でなかった。
別のクラスの純也とも、廊下ですれ違うとどこかぎこちなく意識してしまい、不自然になってしまった。
結局、校長室侵入の話は、誰からもされることがなく何事も起こらず、放課後になった。
優一は、当然のことながら、心身ともにぐったりとしてしまい、
授業中も休み時間もこんなことなら、あんなことをしなければよかったと後悔ばかり考えてしまっていた。
そんなことなので、疲れきってしまっているので、放課後はまっすぐ帰宅したかったのだけれど、
普段どおりを演出するため、美術室に向かった。
朝の美術室とは違い、西側の窓からは、朝とは違うオレンジの光りが差し込んでした。
朝の散らかってい絵具は、片付けられていて、あのサイケな絵も見あたらなかった。
優一が朝からずっと緊張していたのは、窓の失態のせいだけではなかった。
校長室から、盗み出した絵を入れた筒をナップサックに持っていたからだった。
誰かにそれを見せてといわれないかと、ドキドキして一日を過ごしていたのだった。
そんなことの可能性は、ほぼ0%なのは、心配性の優一でも理性で十分、分かったいたのだが、
どうしても盗んだ絵を持っていることが、激烈な緊張になっていた。
美術室には、誰もいなかった。
優一は、早く盗んだ絵を手放したくで、いつも放課後は、教室でクラスメートとくだらない話しなどして、
ダラダラと過ごすのだが、今日は終業のベルが鳴ると、一目散に美術室に向かって走ったのだった。
誰も来ないうちに、絵を手放したかったからだ。
美実室のドアを開けると、案の定、部屋には誰もいなかった。
優一は、まっすぐ美術準備室に向い、朝、抜いた筒を同じ場所に戻した。
一日感じていた緊張がユルユルと紐がほどけるように解けて、やっとホッとした気持ちになった。
そのとき突然、準備室の奥から、声がした。
「あれ、優一、今日は早いな」
「ワァッ」と優一は、思わず大きな声をあげてしまった。
「おいおい、そんなに驚くこともないだろう、オバケじゃないぞ」と美術部顧問の安岡が、
準備室の奥の物置と化している作業机の何段にも積み重ねられた段ボールの陰からから顔を出した。