日曜の朝

「電話よ、優一」という母親の声で、優一は目を覚ました。 カーテンから差し込む光が、朝のものだとすぐにわかった。 時計をみると、すでに授業の始まる時間だったので、一瞬あせったが、 今日は日曜だとすぐに気づいた。 「優一、川本さんから電話よ」母親の声は階下から響いた。 昨日のことを思い出した。 ベットの下を覗くと、段ボール紙が見えた。 空しくなって脱力して、あのまま朝まで眠ってしまったのだった。 由香子から電話か。 一昨日の由香子からの余計な電話のことを思い出し、不快な気分が蘇ってきた。 たぶん、美術館への誘いの電話だろう。 ”絶対に、あいつとはウォーホル展には行かない” 優一は、そんなことを考えながら、階下のリビングに降り、 保留中の電話の受話器を取った。 優一は、意識して不機嫌な声で電話に出た。 「もしもし」と優一。 「もしもし」と女性の声。 「もしもし…」と優一。 女性の声が、知っている由香子の声でないような気がした。 「もしもし、優一くん」と女性の声 この声は…。 「マキさん、ですか?」優一は、おもわず大きな声を出した。 「そうよ、マキよ、よくわかったわね」 「そりゃぁ、わかりますよ、なんで、どうして、マキさん」 優一は遠巻きで、電話のやり取りを聞いてる母親も気にせず、興奮気味に応えた。 「先週から帰省してて、きのう、学校に行ったのよ、部活に顔出したら、由香ちゃんくらいしかいなくて」 「優一くん、さぼったでしょう、昨日」といたずらな声で言う。 「えー、まー」と優一は曖昧に応えた。 「で、由香ちゃんと、今日、優一くんも誘って、ウォーホル展行こうって話になって、電話したのよ」 「チケットは、先生から余分にもらってのよ」 「マキさん、いつまでいるんですか?」 「事情あって、しばらくいるの、まぁ、細かいことは会ったとき、話すわ」 「で、優一くん、すぐ出て来れるわよね」 「はい、起きたばっかりですけど、すぐ準備します」 「純也くんも誘えば、チケットはあるし」 「そうですね、すぐ声かけてみます」 「あ、ちょっと待って、由香ちゃんに代わるわね」 「あ、もしもし優一くん」 「急にごめんね、マキさん、優一くんにも、電話してっていうから」 「一昨日も、電話しちゃってごめん」 「いいよいいよ、電話してくれてありがとう〜」 「マキさん、戻ってたんだね」 「そう、私も知らなくて、昨日、突然、学校に来て驚いたわ」 「そうか、じゃぁ詳しくは後で」 「すぐ純也に声かけて、美術館に向かうよ、1時間後くらいかな」 「そうね、マキさんと美術館の喫茶店で待ってるわ」 優一は、興奮気味に受話器を置いた。 美術部の先輩のマキさんと会うのは、マキさんの卒業式以来だった。 東京の美大に進学したマキさんは、画力だけでなく、興味や趣向、知識においても、優一にとって気心知れた先輩だった。 会えなくなってから、絵や音楽や文学のことなど、何度となくマキさんと話せたらなぁと思う事があった。 でも、電話するほどのことでもないしと、そのを気分をごまかしていた。 久しぶりに会って、いろいろ話ができると思うと、優一はうれしかった。 そんな気持ちのまま、すぐに純也に電話をした。

再会のイディア

優一は、イディアを何事もなく、家に持ち帰ることができた。 朝の美術室には、思ったとおり、顧問の安岡はいなかったし誰もいなかった。 誰に見られることもなく、絵の入った筒をピックアップできた。 筒を一日、学校指定のナップサックに入れておいたが、優一は昨日ほど緊張はしなかった。 別のクラスの純也とも由香子とも顔をあわせることもなく過ぎた。 夕方になると、優一は部活を休んで帰宅した。 早くイディアに会いたかったからだ。 家に急ぐ自転車でも、不思議と心は落ち着いていた。 家の玄関を開けると、家から出ようとする父親とぶつかりそうになった。 「ただいま、どうしたの」と優一は聞いた。 まだ、夕方なので父親が仕事から帰るには早い時間だったからだ。 「ちょっと忘れものがあって、家に寄ったんだよ、仕事に戻るよ」 「優一は、今日は部活なかったのか」 「うん、そう」と優一は靴を脱ぎながら返答して、家にあがった。 「ただいま」といったが、母親の声は聞こえなかった。 「お母さんは出かけているよ」と玄関の方から父親の声が聞こえた。 優一は、その声を聞きながら、自分の部屋のある2階へと階段を登った。 自室に入るとドアを閉めた。 母親がいないのは好都合だった。 窓から車庫のあたりをカーテン越しに見下ろすと、父親の車も、もうなかった。 家に誰もいない。 急に胸が高鳴ってきて、ナップサックを開くて手もおぼつかない。 「緊張してるなぁ」と優一は独り言をいって苦笑した。 ナップサックから、筒を取り出して、筒からワレモノを扱うような慎重さで、 トレーシングペーパーに包まれたイディアを取り出した。 筒の中にあったので、画用紙は丸まっていて、手で目の前に広げて眺めた。 胸の高鳴りは急速に落ち着いてきた。 「ううん」と優一は怪訝な声をあげた。 画用紙には確かに、イディアが描かれている。 あの恋い焦がれたイディアが目の前にいる。 だけれど、校長に呼ばれ、初めてイディアを見たときのあの感覚は、全く蘇らなかった。 優一は、すぐに手持ちの額に入れてみた。 丸まっていた画用紙の歪みの影響かと思ったのだ。 本当はそんなことが影響するはずはないと思ったが、そう思いたかった。 額に入れ机に立てかけ、目の高さをあわせて、イディアの強く射るような瞳を、正面から見つめた。 夕方の太陽が、窓から差し込んできている。 何分間、見つめただろう。 だけれど、校長室で感じた、自然に涙が流れる狂おしい程の感情はどこにも現れなかった。 日も暮れて薄暗くなっていく部屋でひとり、優一は呆然としていた。 ”一体、なんだったんだろう” ”僕が、あの日、イディアに感じた想いは” しばらくして我に返ると、優一は、額を段ボール紙に包み、ベットの下に隠した。 優一は脱力し、いい知れぬ虚無感が全身を被うのを感じていた。 ベットに身を投げて、天井を見つめた。 ”一体、なんだったんだろう”

由香子からの電話

優一が家に帰ったのは、深夜0時を過ぎてからだった。 郊外の住宅街は、静まりかえっていて、点々と灯る街灯が別の惑星の景色のように冷たい。 自転車を家の玄関に止めているとき、パトロールの自転車のお巡りさんが、通り過ぎて行った。 鍵を開けて、家に入ると玄関の電灯はつけてあったが、リビングもダイニングにも誰もいなかった。 優一は、ビールで酔っていたので、ホッとした。 両親は二階の寝室で寝ているのだろう。 物音を立てないように、まっすぐお風呂に向かった。 優一は、ぬるくなった湯船につかりながら、天井を眺めた。 優一が純也の家を出る時間になっても、純也の両親は帰ってはこなかった。 何度かウトウトして、目を覚ましを繰り返し、風呂を上がって自室に戻るとすぐに眠ってしまった。 優一は、翌日の朝、目覚まし時計の音で目を覚ました。 1階のダイニングには、いつもどおり新聞を読みながらトーストをかじる父親がいて、 キッチンには母親がせわしなく動いていた。 なんの変哲もない日常、昨日の出来事が嘘のようだ。 「何時に帰ってきたのよ」と母親が咎める感じでいう。 「来年は、受験生なのよ」 優一は予想通りの言葉を聞いて、無視した。 「きのう、川本さんってコから電話あったわよ」 「風邪の具合どうですかって」 「あなた、風邪引いてたの」 川本由香子から電話があったのだ。 「あたたは出かけてるって言ったら、驚いてたわよ」 「なんだよ、余計なこというなよ」と優一は腹を立てた。 「なによ、本当のことでしょう」と母親も語気を強めた。 ”なんで由香子は電話なんかしてくるんだよ” 優一は、母親に対してより、電話をしてきた由香子に怒りが湧いてきた。 自分のウソや、それに繋がる昨日の行動が露呈するような気分になったからだった。 ”あいつとは、絶対、ウォーホルは観に行かない”と優一は怒りにまかせて思った。 「あ、お母さん、朝飯、いらない」と優一は言って、そのまま、家を飛び出した。 背中に、なにやら言う母親の声が聞こえたが、優一は、足を止めず、急いで自転車の飛び乗ると学校に向かった。 ”ほんとうにムカつく”と優一は、ベダルを漕ぐたび、怒りが湧いて来た。 昨夜、純也と昨日の出来事の話と各々の情報交換をした。 悲観的な優一に比べ、純也は楽観的に構えていた。 「なんも起こってないから大丈夫じゃないか」 「いま、考えてもしょうがないよ、なにか起こってから考えればいいだろう」 「とりあえずさ、あの子と早く再会しろよ、会えば、やって良かったと思うからさ」と純也は言って、ビールをあおった。 優一は、いつもより早く家を出て、朝イチの美術室に向かったのだった。 誰もいないうちに絵の入った筒をピックアップしようと思ったのだ。 さすがに昨日の今日で、顧問の安岡もいないだろうと思っていた。 純也の言う事はもっともだと思っていた。 イディアに会う為に、行動を起こしたのだ。 彼女に会えば、きっと、やって良かったと喜びを感じられるだろう。 不安も消えるだろう。 はやく、彼女に会いたい。 いつしか、由香子への怒りも消えて、優一の心にイディアへの気持ちが広がった。 幸せなような切ないような、ワクワクするような、悲しいような、変な気持ちが。 イディアに出会うまで、いままで感じたことがない感覚だった。 優一のペダルを漕ぐ足が早まった。

もし僕が、いい奴だったら

純也の家は、優一の家の近所にある。 ふたりは、中学からの同級生で同じ学区に住んでいた。 優一は、自転車で自分の家を通り過ぎた。 自分の家の2ブロック先に純也の家がある。 優一の家は、ごくごく普通の民家。 1階の居間とダイニングキッチンに灯りがともっていた。 父親の車も車庫に入っている、そろそろ、晩ご飯の時間だ。 母親の屈託ない笑顔を思い出すと、今朝のことがとても後ろめたく感じた。 今日、純也の家に行くことは話してあり、ご飯は要らないと伝えてある。 すぐに、純也の家の前に着いた。 純也の家もごくごく普通の民家で、玄関先で芝犬が吠えていた。 2階にある純也の部屋以外には、明かりは灯っていない。 事業主の彼の両親は遅くまで働いているのだ。 「純也、来たぞ」と優一は真っ暗な玄関で大きな声で言った。 ドタドタと階段を駆け下りる音がして、純也が顔を出した。 「おう、予定時間とおりだな」と言った。 純也の表情は明るく、悩みなどない顔をしていた。 そんな顔をみると、優一もなんだか、気持ちが軽くなる気がした。 2階の純也の部屋に入るやいなや、 「おいおい、純也、たいへんなんだよ」と優一は話しだした。 「まぁまぁ、落ち着けよ」と純也はいいながら、缶ビールを優一に手渡した。 純也が飲むのは、決まってスーパードライ。 6畳ほどの部屋は、フローリングで、その床の優一は座り込んだ。 「話しの前に、まずはBGMだな」と純也は、棚からレコードを引っぱり出した。 「こんな気分かな」と言った。 土に汚れた乳牛が画面いっぱいに写っている。 ピンクフロイドの原子心母のジャケットを優一に見せた。 レコードクリーナーで盤をひと撫でして、ミニコンポのプレーヤーに乗せた。 音が鳴り出した。 軽やかなギターのアルペジオに続いて、穏やかな歌声が、、、 If I were a swan, I'd be gone. 「おいっ、B面かよっ」優一は思わず、飲みかけたビールを吹き出しそうになった。 「そう、こんな気分なんだよ」と純也は、真面目な顔で言った。 「ギャグかよ」優一は、まだ笑いが止まらず、ムセながら言った。 原子心母は、名盤の呼び声高いアルバムだが、その目玉は、なんといってもA面フルに収録されているタイトル・チューンだ。 ドラマティックな起伏に富んだこの曲は約25分にもおよび、幻想的で重厚なサウンド・イメージ、クラシック、ジャズ、現代音楽などの要素を取り入れたすごい曲だった。 なので、ジャケットを見せられた優一は、純也が鳴らすのは、この曲とばかり思っていたので、笑ってしまったのだった。 意表をつかれて、優一は笑いが止まらなくなった。 さっきまでの、深刻な気分は完全に吹き飛んでしまっていた。 If I were a train, I'd be late. And if I were a good man, I'd talk with you more often than I do. ”そして、もし僕が、いい奴だったら、 もっとたくさん、君と話し合うことができるのにな” 内省的な曲とは裏腹に、優一の心は晴れ渡った。 純也といると、ウジウジとした嫌いな自分がいなくなるので、優一は純也といることが好きなんだと思った。 「純也、お前はいい奴だよ」と、笑顔で優一は声に出さずに言った。

放課後の美術室

美術顧問の安岡は、30代後半くらいで、優一の両親と同世代だと思われた。 60年代や70年代のカウンターカルチャーについて、語ることが多かった。 美術教師だからか、やはり他の教師とは違っていて、部活動に関しても、あまり指図されることはなかった。 「昨夜は、絵を描いていたら、ついつい、家に帰らずじまいで、準備室に泊まったんだよ」と、 青と緑のツートンカラーの寝袋を丸め、袋に詰めつつ、言った。 優一はその言葉をきいて、自分でも血の気が引いていくのが分かった。 「段ボールの奥で寝てたんですか」と辛うじて、優一は聞いた。 優一の声は、緊張のあまりかすれていた。 「そうなんだよ、ついつい創作が勢いづいちゃって」 「描いてるときは、最高だと思っているんだけど、朝、起きてから絵を見たら、それは酷いもんだよ」 「深夜のラブレター効果だな、マトモな精神状態ではなかったよ、はっはっはっ」 「ラブレターは深夜に書くなよ、ははは」 安岡は無邪気な笑顔で言った。 優一は、今朝、薄明かりのなかで見たサイケな絵を思い出した。 あの時、安岡は、準備室の奥で寝袋で寝たいたのか…。 優一は、安岡の顔をじっと見た、朝の自分達の行動を知っているのではないか。 朝、校長室にやって来たのは、この安岡ではないのか。 その表情からは、なにも読み取れなかった。 優一は、今置いた筒の中身を見られたら終わりだと思いながらも、 また取り上げることはできないでいた。 それもまた、怪しい過ぎるから。 「僕、部活の準備します」とそのまま、部屋を出た。 優一のこころには、再びムクムクと不安な雲が垂れ込め、焦燥感に苛まれた。 なにをどうしたらいいのか、全く思いつかなかったが、ただ暗く怯えた気持ちで、部活の時間を過ごした。 今、取り組んでいる絵にも集中できず、美術室に夕闇が迫ったころ、筆を置いた。 純也のいうとおり、一応普段どおり過ごしただろう、これで。 早く純也の家に行って、今日のこと、安岡のことも話したい。 美術部員は、名簿上男女合計20名ほど在席していたが、普段は5、6人くらいしか放課後にはやって来なかった。 ほとんどは幽霊部員だった。 そそくさと後片付けをする優一の前に人影が留まった。 「優一くん、なんか元気ないね」同じ2年の由香子が声をかけてきた。 「先生が、これ観てこいって、くれたんだけど」とチケット2枚を指に摘みヒラヒラとさせた。 急いで帰ろうしていた優一の表情が固かったのだろうか。 「県立美術館のウォーホル展、先生、無料招待券もらったんだって」 由香子は、ちょっと照れくさそうな顔をして、言い訳みたいな言い方をした。 女子が男子を美術館に誘うが、それは、あくまでも先生が無料チケットをくれ観てこいと言ったから…。 優一はその気持ちがわかるから、なるべく丁寧に断った。 「今日は、体調が悪いんだよ、ごめん、風邪かもしれない」 「会期いつまであるかな、今日じゃなければ行きたいなぁ、それ観たかったんだよ」 「そうなの、風邪かもね、元気ないもん」 「じゃぁ行く日はまた相談しよう、来月末までやっているし」と由香子はちょっと緊張を崩して笑顔で言った。 優一は、由香子とのやり取りの後、カバンを引っ掴む様にして、美術室を出て、自転車置き場に向かった。 安岡は、放課後の部活動の時間、美術準備室から出ててこなかった。 出て来て何か言われるんじゃないかと緊張していた優一は、このまま顔をあわさず、帰れそうでホッとした。 自転車に跨がると純也の家を目指して、ベタルを漕いだ。 純也は、部活をしていない帰宅部なので、もう家に居るはずだ。 30分程で純也の家に着くだろう。 優一は自転車を繰りながら、朝からの今日の出来事を時系列に思い出していた。 校長の応接室の窓を閉めてこなかったこと、そして、忍び込んだとき、美術準備室に安岡が寝ていた事。 頭がクラクラするくらい不安な気持ちが優一の体の中を渦巻いた。 早く純也と話して対策を考えよう、もし対策があるのなら。

マキさんへの手紙(3枚目)

その画家の元恋人のイディアの肖像画だったんです。 それは、ふたりが一時期、NYのチェルシーホテルに同棲していたときの作品なんです。 前日みたNHK特集でそのエピソードが語られていいました。 ふたりは、NYで出会い、愛し合い、生活を共にしていたんですが、 画家が自分の本当のセクシャルティに目覚めて、ホモセクシャルになり、イディアと別れる。 その別れの数週間前、この肖像画に没頭したらしいです。 今までの想いをすべて画筆に込めて。 ふたりは、恋人同士だったけれど、舞台女優を目指すイディアとは、同じ表現者としてもライバルだった。 その特集番組でもエピソードが語られいましたが、イディアが大役に抜擢されると、画家は自分のように喜びつつ、 同時に狂おしい程の嫉妬に苛まれて同棲していた部屋には帰らず、同性愛者のパトロン宅に入り浸りになったらしいです。 同志でありながら、ライバルあり、愛する女性でもあり、自分の分身でもある…。 校長室で、ひとりその習作を見つめることができたとき、 画家のその時の想いというか魂(おおげさですが、本当にそんなもの)を感じて、 イディアに対する愛(これも、こう書くと陳腐になりますが)のエナジーみないなものが、僕の目に雪玉が投げつけられるような衝撃で、 飛び込んできたんです。 隣の部屋からは、相変わらず、校長の鼻にかかった声が聞こえては来るんですが、さっきまでの不快な気分は起こらず、 ただの音として、耳に届くだけでした。 なんだか胸がジーンと熱くなり、手の平がむずかゆくなり、鼻の奥がツーンと切ないような感じになりました。 そして、目から涙が自然と流れてきたのは、自分でも本当に驚きました。 いつ校長が戻ってくるか分からないなかで、涙を流しているなんて…、早く止めようと意識するのでが、全く止まる気配もなく、 逆に、意思とは裏腹に胸の熱さはさらに高まり、高ぶった感情は出口を求めて、大声で嗚咽しそうになりました。 自分では全くコントロールが効かない状態になってしまい、応接の机に突っ伏して、声を殺して泣き続けました。 自分ではどのくらい時間が経ったかわからなかったのですが、少し落ち着いたところで、顔をあげました。 そしたら、校長が何かおそろしいものを見たような顔をして、応接の入口になって、立ってました。 「君、大丈夫か…」 「待たせて…すまなかった」 校長は、あきらかにうろたえたいました。 「今日は、もういいから、帰りなさい」 「ちょっと言い過ぎた、君には頑張ってほしいから、だよ」 「いまからでも頑張れば、十分大丈夫だから」 「わからないことがあったら、なんでも聞きにきなさい、ね」 急に別人のような猫なで声で、無理に微笑んだように校長は言いました。 そうやって期せずに校長室から解放されたんですが、校長室を出るときは、入る前の憂鬱は完全に消えいて、 別の気持ち、”イディアにもう一度会いたい” ”イディアのそばに一緒にいたい” そんな狂おしい切ない気持ちが胸に迫っていました。 絵のイディアを好きに…、絵のイディアに恋してしまったのかもしれません。

失敗と後悔

〜あらすじ〜 時は80年代後半、純也と優一は北陸の高校2年生。 美術部の優一は、偶然、校長室で見た女性像絵画に心奪われてしまう。 純也の共謀して、その絵を盗み出す事に。 そして、それは成功したのだけれど、物語は意外な展開に。 10代男子が、苦悶しつつも、友達や周りの大人たちに身も守られ、成長していくストーリー。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 純也が公園の中央にある時計を見上げると、ちょうど7時半だった。 「窓はまずいな、あせっていたからな、オレたち」 さすがの純也も、深刻な顔になった。 それを見て、優一も、さらに青い顔になった。 「侵入はバレても、オレたちの証拠はない、大丈夫」 「盗まれたり、なくなったりしたものも、ないから」 と、純也は無理に元気な声で自分に言い聞かせる様に言った。 「いや、普通、無くなったものがないか、部屋を詳しく調べるだろう、そしたら、あの絵に気づく、絶対に気づくよ」 優一は、今にも泣きそうな声で言った。 「なんな、ヘタくそな模造、すぐバレるって、バレるバレる絶対」 「でもさ、こんなところで、あーだこーだ言っていてもしょうがないだろ」 「あとさ、物事には絶対はない」 純也は、少しイライラした口調で言った。 「いまさらどうしようもない、夜、オレんちで話そう」 「今日は、予定とどおり、自然にいつも通り登校して、過ごそう、優一、あくまでも自然にな、無理かもしれないけど、自然に」 「なぁ、とりあえず笑えよ、優一、死人みたいな顔だぞ」と言っている純也の顔が全く笑っていなかった。 いつもどおり教室に入り、いつもどおり授業を受けていたが、 優一は、いつ校長室の侵入事件の話が、クラス担任から切り出されるか、気が気でなかった。 別のクラスの純也とも、廊下ですれ違うとどこかぎこちなく意識してしまい、不自然になってしまった。 結局、校長室侵入の話は、誰からもされることがなく何事も起こらず、放課後になった。 優一は、当然のことながら、心身ともにぐったりとしてしまい、 授業中も休み時間もこんなことなら、あんなことをしなければよかったと後悔ばかり考えてしまっていた。 そんなことなので、疲れきってしまっているので、放課後はまっすぐ帰宅したかったのだけれど、 普段どおりを演出するため、美術室に向かった。 朝の美術室とは違い、西側の窓からは、朝とは違うオレンジの光りが差し込んでした。 朝の散らかってい絵具は、片付けられていて、あのサイケな絵も見あたらなかった。 優一が朝からずっと緊張していたのは、窓の失態のせいだけではなかった。 校長室から、盗み出した絵を入れた筒をナップサックに持っていたからだった。 誰かにそれを見せてといわれないかと、ドキドキして一日を過ごしていたのだった。 そんなことの可能性は、ほぼ0%なのは、心配性の優一でも理性で十分、分かったいたのだが、 どうしても盗んだ絵を持っていることが、激烈な緊張になっていた。 美術室には、誰もいなかった。 優一は、早く盗んだ絵を手放したくで、いつも放課後は、教室でクラスメートとくだらない話しなどして、 ダラダラと過ごすのだが、今日は終業のベルが鳴ると、一目散に美術室に向かって走ったのだった。 誰も来ないうちに、絵を手放したかったからだ。 美実室のドアを開けると、案の定、部屋には誰もいなかった。 優一は、まっすぐ美術準備室に向い、朝、抜いた筒を同じ場所に戻した。 一日感じていた緊張がユルユルと紐がほどけるように解けて、やっとホッとした気持ちになった。 そのとき突然、準備室の奥から、声がした。 「あれ、優一、今日は早いな」 「ワァッ」と優一は、思わず大きな声をあげてしまった。 「おいおい、そんなに驚くこともないだろう、オバケじゃないぞ」と美術部顧問の安岡が、 準備室の奥の物置と化している作業机の何段にも積み重ねられた段ボールの陰からから顔を出した。